社会+学習+こころの話ー。
世の中では時々「世の中を変える、新しい力(ちから)」といったりしますが
それは「若い力」に限らないのでは?という話です。
前置き。
筆者がある本を読んでいた時、
その本の中で「若い、新しい力」というような言葉を目にしました、
そこから改めて考えたのですが、
「新しい力」や「新しいもの」を生むのは、実は「若い力」に限らないかもしれません。
何故なら、年を取った方が世の中に新しいものを生み出すこともあるからです。
過去記事で書いたように、81歳の方が『hinadan(ひなだん)』*1というアプリゲームを作り出す場合もあります。
これは画期的なものとして評価されましたので、
言ってみれば「年を取った方が世に生み出した、新しい力」と言えるでしょう。
なので、「新しい力とは若い力(だけ)ではない」ということができるのかなと。
そして逆に、若いからと言って、新しい(魅力ある)ものを生み出せるとは限りません。
例えば「マンガ」については、「マンガを読んで描いたマンガにはリアリティ・深みがない」という話もあります。
というのも、今の世代の方は小さなころから漫画を読んだりしているので、
逆に「現実の要素を、うまく自分のマンガに活かすことが出来ない」という例もあるようです。
(初めのころは「現実を見てマンガを描く」感じだったものが、広まるうちに「マンガを見てマンガを描く」となるわけですね。
すると、現実とは離れているマンガ的表現やストーリーといったものを、そのまま真似してしまうこともあるかもしれません)
だからリアリティがなかったり、そこから「深みや面白みやない」と思わせてしまうのかもしれません。
要は、「面白かった漫画のマネ」で終わっている、という感じでしょうか。
まあそれでももちろん面白い例はあるかと思いますが、
有名作・面白い作品の「表面(ひょうめん)」だけをなぞって終わっているようですと、深みや面白みは足らないかもしれません。
とすると、新しい、魅力あるものを生み出せている、とはなかなか言い難く、
若い人がみんな「新しい力」を持っているとは言いづらいわけですね。
で、こういう風に書くと「若いのはダメで、年を取っていればいいのか?」と思われるかもしれませんが、
そういうわけではありません。
ここで大事なのは、いわゆる「思考停止(しこうていし)」の状態になっているかならないか、だと思います。
思考停止とは、考えることをやめてしまうことですね。
例えばある人が若かろうと、年を取っていようと、
「大抵のことはもうわかるよ」と思考を止めてしまったら、それ以上は進歩しにくいかもしれません。
でも、そこで止まらず、新しい情報を取り入れたり、考えたり努力をしてみると、
新しいものが見えたり、あるいはその人の持っている経験と結びついて、面白い反応が起こるかもしれません。
そうやって生まれるものこそが、実は「新しい力」なのではないかと思います。
若いと確かにいろんなものを吸収しやすいですが、
それは若いだけで「視野が広い」「努力し続けられる」ということではないのだと思います。
成長の分、堕落(だらく)するのも早かったりしますしね。
あなたがもし若い方だとして、
「まったく年寄りは頭が固い。もっと若い新しい力が必要だ」と思うこともあるかもしれませんが。
さて、あなた自身は「新しい力」を生み出せているでしょうか?
どこか都合のいいところで、「思考停止」していませんでしょうか?
いつも考えるのは疲れるかもですが、たまに「自分はまだまだだな」と思ってみると。
あなたの中の「新しい力」が、より目覚めやすくなるかもしれませんね。
まあそんな感じで~。
関連用語:「考える力」*2、「オリジナリティ」*3、「地頭(じあたま)」*4
追記
ちなみに特に「とにかく思考停止しなければいい」、「新しい方がいい」という訳ではありません。
考え続けて行動できない、というのも残念ですし、
新しくなくても、今までの「伝統(でんとう)」*5を守るとか、衰退させない、というのも大事ですからね。ちゃんと学ばないとそもそも「形無し」になってしまうかもしれません。
ただその中でも「もっと伝統を広められるんじゃないか?」とか「工夫しないと、生き残れないんじゃないか」ということはあるかもしれません。
これらはケースにもよるでしょうが、マンガなどでもしばしば扱われる、重要な問題ですね。
追記2
本文の内容に関して場合分けしてみると
①若い人で、「新しい力」を持っている …若くて、柔軟・創造的
②若い人で、「新しい力」を持っていない …若くて、頭が固い
③年配の人で、「新しい力」を持っている …年を取っていて、柔軟・創造的
④年配の人で、「新しい力」を持っていない …年を取っていて、頭が固い
という感じかもしれません。、
ここにはさらに、「世の中にとって役に立つか否か」というのも入ってきますが、そこは複雑なので今回は略です。
追記3
ちなみに何かを深く考えたい時には、「知識(ちしき)」*6の存在が大事になります。
なぜかというと、よく知らないものは、考えにくいからです。
例えば過去記事で書いた、「ニャニマンマクルニヤッペー」*7という料理があったとして、
筆者がみなさまに「ニャニマンマクルニヤッペーとフィラルソコルについて深く語ってください」といっても、
多分とても難しいのではないかと思います。そもそもそれが何か知らないですしね。
ところが、筆者が「肉じゃがと日本食について語ってください」というと、難易度はちょっと下がるのではないかと思います。
ある程度知っているでしょうしね。
極端な例ですが、これは「知識」のあるかないかの違いを、ある意味表してもいます。
同様に、ゲームが好きな方は、政治について知らず、上手く語れないかもしれません、けれど、自分が知っているゲームについては山ほど語れるかもしれない、というわけです。
なので、自分が知ろうとしているものがまず何なのか?何が関わるのか?という知識などは大事なわけですね。
それを知ること、知ろうとすることを「学習(がくしゅう)」と言い、また「勉強(べんきょう)」と言ったりするわけです。
なので学校でいろんな知識や、また学習の仕方を教えるのは、そういう目的もあるのかなと。
もちろん学校の勉強だけが大事なものではないですが、
学校の勉強を大事にすること・ベースにすることでも生み出せる「新しい力」は、結構多いかもしれません。
なにより「学校のことはよく知らないが他のことは知っている」のより、
「学校のことも他のことも知っている」方が、発想できるものとしては多くなるかと思います。
追記4
何かの作品の表面を真似してみる、というのは物事の初めでもあるので、それ自体はいいかと思いますが。
その作品を「こんなもんだろう」、「分かり切っている」と考えてしまうと、
その作品や相手に対する「尊敬(そんけい)」がちょっと薄れてしまうかもしれません。
そしてそれは、一種の「先入観(せんにゅうかん)」や「偏見(へんけん)」といったものになってしまうかもしれません。
それだけならまだいいと言えばいいのですが、
「偏った目で見る」ということは、「ある一定範囲の情報しか拾えない」ということですので、
見えている範囲以外の魅力やテクニックは、取りこぼすことになります。
すると、自分自身のレベルアップがしにくくなる恐れがあります。
つまり「相手への尊敬」という、あくまで「相手」に関わるように見える問題で手を抜くと、
知らず知らず自分の損になることをしているかもしれない、ということもあるかもしれませんね。
*1:アプリゲーム『hinadan』(ひなだん)については 5/24 ゲーム:気になったゲームの名前メモ(5/24) - のっぽさんの勉強メモ を参照。
*2:「考える力」については 4/14 学習:「考える力」の意味 ~Why do I think ?~ - のっぽさんの勉強メモ を参照。
*3:「オリジナリティ」については 9/18 国+社:新しいもの、古いもの、そして「オリジナリティ」の話 ~真似(まね)と原始時代~ - のっぽさんの勉強メモ を参照。
*4:「地頭(じあたま)」については 1/31 国+学:何のために「頭を良くする」の? ~「地頭(じあたま)」についての話~ - のっぽさんの勉強メモ を参照。
*5:「伝統(でんとう)」や「形無し」については 12/21 国語:もっとだ、もっと素敵な文をプリーズ! ~ファンタジー料理を添えて~ - のっぽさんの勉強メモ を参照。
*6:「知識(ちしき)」については 1/3 社会:「異世界(いせかい)」と「貧困国(ひんこんこく)」の関係!? ~「知識(ちしき)」と「活躍(かつやく」~ - のっぽさんの勉強メモ を参照。
*7:「ニャニマンマクルニヤッペー」を扱っている自作ゲーム『イミワカンナイ・プラス』については 6/8 学習+ゲーム:「イミワカンナイ・プラス」 ~分からないことをたまに調べるゲーム~ - のっぽさんの勉強メモ を参照。