のっぽさんの勉強メモ

主に中学の学習内容と、それに絡みそうな色んなネタを扱っています。不定期更新ですー。あ、何か探したいことがある場合は、右の「検索」や記事上のタグやページ右にある「カテゴリー」から関係ある記事が見られたりします。

10/29 社+ゲーム他:「現実(げんじつ)」は、ゲーム画面より狭いですか? ~「見て見ぬふり」、「不正(ふせい)」、「公害(こうがい)」の話~

 社会+ゲーム+こころの話ー。

 「現実(げんじつ)」*1と「ゲーム」の話で、
 自分が「現実」と思ってることでも、結構見えてないことがあるのでは?
 むしろ、ゲームよりごまかしてることもあるのでは?みたいな話です。

 過去の「公害(こうがい)」に関することなども交えて。


※内容的にワルい話やどろどろした話などが含まれます。ご注意を。




 前置き。

 昔から「ゲーム」と「現実」というものは、時々対比(たいひ)されることがありますね。
 「ゲームばかりやっていると視野が狭くなる」とか
 「あんまりゲーム世界にひたると、現実が見えなくなる」いうような感じですかね。
 まあゲームは人が作ったものですし、だいぶ楽しく・分かりやすくした世界ではあります。
 それに比べて現実は複雑な・イヤなことも多いですね。


 でも、じゃあ逆に「ゲームをやってなければ、視野が広いか?」というのを考えたところ、
 実はそうでもないんじゃないか、ということを思いました。


 例えば「環境問題(かんきょうもんだい)」について。
 都市運営ゲームでの『シムシティ』などでは、汚染や公害に関するデータもありますので、
 無茶な建築や、環境に配慮しないことをしていくと警告が出たりします。
 あと都市の「汚れ」とかがデータとして画面に出てしまったりもしまいます。


 対して「現実」の社会はというと、
 確かに汚染によって公害とかは生じたりしますが、それについていつも企業などが早く動くわけではありません。
 むしろ「隠蔽(いんぺい)」、つまり隠そうとしたり、しばらくごまかしたりもします。

 社会科の「四大公害」に関するケースでも、
 国や企業は公害についてしばらく知らんぷりしたりしていたようです。
 理由としては、経済活動や儲けなどを優先したかったようですね(「高度経済成長期」も絡んでいたり)。



 一方でゲーム内ではこういう「ズル」のようなことは、あらかじめシステムにないとできません。
 ゲームのデータをいじることはできますが、それはどちらかというとゲームの外のテクニックですね。


 つまり、ゲームでは出来ないようなズルも、現実の社会でできてしまう。
 そしていろんなことに知らんぷりや、見てみぬふりもできる、と言えるかもしれません。


 だったら、色んな悪いデータも「表示されてしまう」し、悪いイベントにも直面しなきゃいけないゲーム画面より
 時に「現実」の方がよっぽど、視野が狭くなっているのではないか?

 ということを思った次第です。



 まあ、だからといってゲームの方が優れているとかではなく、
 「現実」と思っていても、思い込みやズルで見えなくなるものも多いのではないか、という話ですね。
 (そもそも上の「公害」などの話も、現実にあるものをゲームで表現させたものですし)




 でも「ズル」や「不正」が通じるのは人間の社会であり、自然相手にはあまり効かないようです。
 近年「異常気象」が多いですが、その根っこにあるとされる「温暖化」には対策しきれていませんからね。


 ゲーム的に言うなら、自分の普段の「現実」の「画面」の外で、
 色々悪いイベント(例:異常気象、環境破壊)が起こっているのかもしれません。


 避けられないもの、というものはどうしてもあるようです。
 そういったものに対策するためには、「ゲーム画面」の狭さだけでなく、
 「自分の『現実』(現実ゲーム)の画面も、狭いのではないか?」
 と一度思ってみるのも、いいかもしれませんね。



 まあそんな感じで~。




追記
 あとは公害以外のケースでも、「不正(ふせい)」とか、「脅迫(きょうはく)」とか、ごまかしとかが行われることがあるようです。
 都合の悪いデータを改竄(かいざん)したり、隠したり。
 最近では、国の「障がい者」の雇用に関する不正なども話題になっていますね。
 ここ2・3年では「忖度(そんたく)」という言葉も流行しています



追記2
 あんまり深く考えるとイヤになりそうなネタですが。
 例えば、普段我々が食べているものは、どういう環境で作られているのか?
 ということを考えてみるのも、いいかもしれません。


 それが健全な環境ならいいですが、
 例えばブラックで劣悪な環境で育ち、その「おかげ」で安くなった商品を、
 我々は何も知らず、買って喜んでいる…ということは、あるかもしれませんね。
 
 ちょっとイヤな言い方をすれば、我々の幸せの根っこに、誰かの不幸があるかもしれず我々は、その誰かの不幸によって幸せな気分を味わえている、ということはあるかもしれません。
 (これは「人の不幸は蜜の味」とはまた別の話です)


 そしてその会社(仮に「ブラックのっぽ会社」としましょうか)に、さらにその「安い商品」を注文したり、さらなる値下げを注文したとしましょう。
 そして、その「ブラックのっぽ会社」が要求にこたえようと、その商品を作っている人の給料を下げたり、労働環境をさらに悪くしたとしましょう。

 するとそれは、「我々」の要求が、誰かに対する悪事や苦しみの原因のようなものになった、ということが、言えてしまうかもしれません。


 「我々」としては「そこまでやれとは言っていない!」というような話ではありますが、
 「ブラックのっぽ会社」としては、「あんたが要求した話だろうが!そんなことも想像できなかったのか!?」と言い返してくるかもしれませんね。
 それに対してあなたはどう思われるでしょうか?

 なかなかアレな話ですが。
 誰かの生活や幸せの根っこに、誰かの悪事や犯罪が絡んでいた場合。
 そしてそれを失くしてしまうと、生活が成り立たなくなる、といった場合などは、難しい問題ですね。

 

追記3
 そのまま上の「ブラック」ネタ、というわけではありませんが、
 野菜の「もやし」は利益が上がらなくて困っているが、値段を上げようとすると文句が出る、みたいな話は聞いたことがあります、
 過去記事の「ギャンブル」でも少し扱いましたが、利益というのもは勝手に涌いてくる、ということはそんなになく、
 自分が得する時には、誰かが損や我慢をしていたり、環境に大きな負担を強いていることもあります。



追記4
 あとは単純に、イライラしていたりすると、見える範囲が狭くなったりもするようです。
 「怒りで周りが見えなくなる」って表現もありますね。
 または疲れていると、一度に沢山のデータを理解することは難しくなるでしょう。
 そういう意味では、一度に捉えられる「現実」や「視野(しや)」の範囲というのは、結構簡単に変わるのかもしれません。
 例えば自分の生活でいっぱいいっぱいの時に、世界の悲惨な話をされても、受け入れにくいかもしれません。

 これへの対策としては「ストレス」や「疲れ」自体を減らすことなどがあります。
 「世界のことを思えないなんて、自分は心が狭いんだ…」と思うのもいいですが、たぶん心の広さ自体はすぐには変えにくいと思われます。
 なので、せめて「今の心」をすっきりさせると、出来ることは増えるかもしれません。
 ここら辺は「疲れているとテストでも能力が発揮しにくい」のと似ているかもしれませんね。
 学力はすぐには伸びなくても、疲れを取ることはできるわけです。



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